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負債論 貨幣と暴力の5000年

, デヴィッド・グレーバー
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ペーパーバック : 848ページ ページ
作者 : デヴィッド・グレーバー
出版社 : 以文社 (2016/11/22)
コレクション : 本
ISBN-10 : 475310334X
フォーマット : 単行本
発行日 : 2016/11/22
平均的な顧客フィードバック : 4.3 5つ星のうち(13人の読者)
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本書は、負債というもの、そしてそれを巡るモラル、すなわち「借りた金は返さねばならない」という倫理感覚や見方、の自明性を掘り崩し、それに対するオルタナティブを提示しようとする試みである。筆者は人類学者であり、そのため過去の諸文明の歴史のみならず、未開民族の経済体系などを豊富に取り上げながら、経済の在り方についての我々の固定観念を揺さぶっていく。本書で最初に批判されるのは、「経済はまず物々交換で始まり、それを洗練させる形で貨幣が作られ、それを利用して金融のような信用システムが発達した」という見方である。この見方は非常に根深いものだが、これは誤っていると筆者は論じている。実際の歴史や諸民族を調べてわかることは、恒常的に物々交換をしている民族などはなく、実際の順序はまず信用システムの貸し借りが発生し、その後貨幣が作られ、そうした貨幣を使う人々が何らかの機会に貨幣が使えなくなる場合(刑務所とか)には物々交換が発生する、という流れが通常である。諸民族において物々交換が生じるのは、ただ一度限りしか出会わないような、裏切りや敵対が容易に生じるような相手に対してであると筆者は指摘する。今や倫理でさえも互酬性の原理で理解しようという向き(助けてもらったらお返ししなければ/人を傷つけたなら償わねば)が強いが、そのように理解できない関係も多々あると筆者は言う。まず筆者は、いくつかの民族において、命を助けられた人が、助けた人に対して当然のようにさらに贈り物を求める例を挙げる。この例は我々の常識に大きく反するものだが、次にあげる「見ず知らずの人相手でも、道を聞かれたら正しく答えてあげる」「タバコの火を分けてあげる」という例は、我々にもなじみがあるものだ。このような「能力に応じて貢献し、必要に応じて分配する」というあり方を筆者は「コミュニズム」と呼ぶ。そこまで信頼の基盤が強くなく、それを自覚的に維持する必要がある地域では、「贈与交換」を繰り返し、しかもそれが常に少しだけ釣り合わない形にしておくことで関係の意地を続けようとする動きがみられるという。また別の形態としては、互いに全く異なる階級・身分に属すると考えられている場合、すなわち「ヒエラルキー」がある場合には、そもそも互酬や高官は成り立ちえず、貢物を王に行い、王が見返りに気前よく豪華な品を恵む、という世界各地で見られたあり方が実行される。これらを逆照射的にみることで、互酬性、交換、負債の本質として「人間関係の切断(負債を返したらもうそれっきり)」と「原理的な平等性」を筆者は挙げる。それに続けて、「異なるものが共通尺度で定量化可能、また比較可能である」という貨幣の特質を挙げていく。この例として、とある民族で見られる結婚や殺傷の償いの在り方を見ることで、一見すると埋め合わせが行われながらも「人は人でしか埋め合わせられない」という非交換、異質なものの比較不能性の存在を指摘するとともに、奴隷などの「人間関係から完全に切り離された存在」は交換されうるという事実を指摘する。奴隷の人数は「名誉の量」(奴隷は名誉を剥奪された存在であり、それを剥奪できるということが名誉の源泉となる)として交換されていくが、次第にそれがすべてのものの尺度となる、という貨幣の一つのルートを提示している。(金属貨幣の導入は、国家による軍隊動員に際しての物資供給を現場で実現するために市場を創出したという話もあり、単一経路ではないのだろう)本書後半では具体的な世界の歴史に当てはめながら分析が進められている。本書の書き方は、話があっちに行ったりこっちに行ったりするし、また様々な論者の主張を長々と紹介したうえで批判する一方で、筆者自身の考えがどこにあるのかは見えにくいor書かれていないことも多く、分かりやすく書かれているとはお世辞にも言えない。また、事例の紹介の仕方も都合のいいものを選んでいるだけではというものも多い。アダム・スミスは本書ではかなり批判的に言及されているが、彼が市場内のフェアプレーや互恵の精神を強調していること(例えばアダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書))を踏まえるとかなり一面的な批判に見える。さらに論旨や概念整備が曖昧なので、例えば「純粋なコミュニズム」と「信用経済(事後支払いで済ますツケのようなもの)」とがごちゃごちゃと論じられている印象を受ける。「~と~は語源が共通している」という形で二者の関係性を論じる論法が本書ではしばしばみられるが、この論法はレトリック以上の意味はなく、乱用しすぎのように見受けられる。出ている論そのものは、断片的にはマルクスやポランニー、ブローデル等によってすでに指摘されているものも多いが、それを一望する視点で扱って統一的に眺めようというあたりに本書の野心性を見ることが出来る。特に、負債や貨幣に対するかくも根深き認識と、それへのオルタナティブの存在の示唆という意味では、本書はきちんとその役割が果たせているといっていいだろう。だが、オルタナティブは示唆されただけであり、それを具体的な形で提示できているとは到底思えない。コミュニズムや信用が支配する社会は、いわゆる共同体主義(コミュニタリアニズム)と論を一にするが、それは同時に村八分や「伝統と慣習による支配」を認める「空気の圧政」の擁護にもなりかねない点に筆者は全く注意を払っていない。差別や偏見を打ち破るための場としての自由と市場、という擁護論は例えばフリードマンなどに見ることが出来るが、そこにおいては人間関係の切断が「因習からの離脱」として肯定的に理解されている。本書の最初と最後で行われているIMFや金融市場、アメリカ国債の問題への批判は、具体的対案がないため空回りしているし、それ以前に本書全体の流れで見てもかなり浮いている(個人の負債と国家の負債は明らかに異なる存在であり異なる問題を抱えている)。細かな点では同意できない点も多々あるが、しかしそれでも問題提起の書としては本書は一定の価値を持つものであろう。

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